大会

※4/22・23開催の大会については、
http://www.torekiken.org/trk/blog/taikai/51taikai.htmlをご覧ください。

【東京歴史科学研究会 第51回大会《委員会企画》報告準備会】 
「平和」の内実を問う―「共生」のための課題

[報告]
  • 大橋幸泰「近世日本の異端的宗教活動と秩序意識」
  • 安岡健一「基地とコンビナート
    ―高度成長期日本における社会変容と人びとの意識―」(仮)
  • コメント:石田憲
[日時]2017年3月2日(木)13:00

[会場]歴史科学協議会事務所
 〒114-0023 東京都北区滝野川2-32-10 滝野川マンション222

[資料代]なし

東京歴史科学研究会 第51回大会《個別報告》準備

[報告]
  • 水林純「戦国期の土豪・在地寺院と「徳政」」
  • 岩村麻里「維新政権における藩士登用」
  • 青木然「日露戦争期における日本のメディアの東アジア表象とその受容

[日時]2017年3月19日(日)13時

[会場]歴史科学協議会事務所
 〒114-0023 東京都北区滝野川2-32-10 滝野川マンション222号

[資料代]なし

【東京歴史科学研究会 第51回大会・総会】

第1日目 2017年4月22日(土)
《個別報告》 13:00~ 14:00~(開始時間が変更になりました)
  • 水林純「戦国期の土豪・在地寺院と「徳政」」
    (仮)
  • 岩村麻里「維新政権における藩士登用」
  • 青木然「日露戦争期における日本のメディアの東アジア表象とその受容」
第2日目 2017年4月23日(日)

《総会》 10:00~(予定)

《委員会企画》 13:00~(予定)
「平和」の内実を問う―「共生」のための課題―
  • 大橋幸泰「近世日本の異端的宗教活動と秩序意識」
  • 安岡健一「基地とコンビナート
    ―高度成長期日本における社会変容と人びとの意識―」(仮)
  • コメント:石田憲


【会場】

早稲田大学早稲田キャンパス 

※教室 については調整中です。決定次第ウェブサイトお知らせします

pdficon_large.gifPDFポスター

※4/23・24開催の大会については、http://www.torekiken.org/trk/blog/taikai/50taikai.htmlをご覧ください。


【東京歴史科学研究会 第50回大会《委員会企画》報告準備会】 
<<転換の時代を生きる人びと―「土豪」・「名望家」たちの果たした役割から>>

【報告】
  • 長谷川裕子「中近世移行期における土豪の機能とその変化―軍事・外交機能の消失と村役負担の観点から―」
  • 三村昌司「近代日本社会における「名望家」の歴史的位置―兵庫県美嚢郡三木町玉置家を事例に―」    
【日時】
 2016年3月27日(日)14:00~

【会場】
 歴史科学協議会事務所

 〒114-0023
 東京都北区滝野川2-32-10 滝野川マンション222号

【資料代】
 実費をいただきます(予約不要)

【第50回大会《個別報告》準備会(1)・前近代史部会
 東京歴史科学研究会の前近代史部会を開催します。
 今回は、4月23・24日に開催予定の第50回大会・個別報告の準備報告会(1)です。
 どなたでも参加できますので、お誘い合わせのうえふるってご参加ください。

【報告】
  • 朝比奈新 「伊勢神宮領荘園における寄進行為の実態―遠江国浜名神戸を事例として―」
  • 鈴木直樹 「近世前期地域支配体制の変容と土豪」

【日時】
 2016年3月14日(月)18時〜

【会場】
 一橋大学東キャンパスマーキュリータワー6階3601号室

【資料代】
 実費をいただきます(予約不要)

【第50回大会《個別報告》準備会(2)・近代史部会
 東京歴史科学研究会の近代史部会を開催します。
 今回は、2016年4月23(土)・24日(日)に開催予定の第50回大会・個別報告の準備報告会(2)です。
 どなたでも参加できますので、お誘い合わせのうえふるってご参加ください。

【報告】
  • 小野 美里「日中戦争期華北占領地における対外関係の展開 ―北支那方面軍『月報』を手がかりに―」
  • 大堀 宙「「大東亜共栄圏」における「民族」の問題 ―ビルマ・シャン州をめぐって―」(仮)

【日時】
 2016年3月13日(日)14時~

【会場】
 明治大学駿河台キャンパス 猿楽町校舎 史学地理学共同演習室

【資料代】
 実費をいただきます(予約不要)

【東京歴史科学研究会 第50回大会・総会】

第1日目 2016年4月23日(土) 

《個別報告》 13:00~(予定)


第2日目 2015年4月24日(日)

《総会》 10:00~(予定)

《委員会企画》 13:00~(予定)

転換の時代を生きる人びと―「土豪」・「名望家」たちの果たした役割から― 【趣旨文】


【会場】

早稲田大学(東京メトロ東西線「早稲田駅」徒歩5分) 

  • 23日(土) 戸山キャンパス34号館151
  • 24日(日) 早稲田キャンパス3号館405

※初日・2日目でキャンパス・会場が異なります。ご注意ください。

pdficon_large.gifPDFポスター

伊勢神宮領荘園における寄進行為の実態―遠江国浜名神戸を事例として―

朝比奈 新

 中世社会にみられる寄進行為は、民衆レベルの所有の拡大などにより地域社会へと浸透していった。地域寺院にも、現世・来世の安穏などを願う多くの民衆から田地等の寄進が寄せられた。そして地域寺院に集積されてきた田地は、荘園領主などによって免田として公認され、寺領の中核として形成されていくという理解がされてきた。しかし、寺院への寄進・売買により発生した免田には、荘園領主など権力の承認が必ずしも必要とされなかったことがわかってきた。また本尊への寄進の事例から、本尊領は荘域を超えて散在していたことがわかっており、荘園制的な領域構成を超えて独自の関係があった。

 つまり、地域社会における寺院への寄進行為は、荘園制とは異なる次元でおこなわれていた側面を持っていた。中世の荘園制と地域社会の関係を考える上で、寺院への寄進行為は重要な鍵になると考える。そこで、伊勢神宮領遠江国浜名神戸を考察の対象地域としたい。浜名神戸は十六世紀まで貢納がみられるなど、中世後期まで一貫して伊勢神宮領として設定されていた。そして地域の人々からの寄進が多く確認される地域寺院大福寺が存在する。荘園制と地域寺院への寄進行為の関係を論じるには格好の素材であると考える。

 第一章では浜名神戸と大福寺について説明する。浜名神戸は古代に成立した伊勢神宮領荘園である。その中心部からやや北側に位置するのが高野山真言宗寺院の大福寺である。大福寺は、伊勢神宮の祈祷所として、領主の庇護を受ける関係であることが確認できる。寄進者の階層は、荘官層、名主・沙汰人層、僧侶や法名を名乗る者が多く、寄進対象物は田畠地で占められていた。

 第二章では大福寺による寄進物の運用について述べる。大福寺への寄進状二四通中一一通が、本尊である薬師如来へ田畠地の寄進をおこなっていた。本尊領は寺僧の共同体が維持・管理していたことがわかっており、大福寺でも十数の坊の共同体である衆徒等によって管理されていたと考えられる。本尊領を含む寄進田地は浜名神戸の中心地に集中してはいるものの、広範囲にわたって散在していた。寄進田地を介して地域社会に大福寺の寺院機能が浸透していたことがわかってくる。

 第三章では寄進行為にみえる伊勢神宮領荘園の特徴を考えていく。伊勢神宮領では地域寺院への寄進行為に神仏隔離の影響がみられる。そのことを承元三年の大中臣時定による大福寺への所領寄進の事例から、神領を寄進する行為を、伊勢神宮祭主家出身者の出家や氏寺建立と関連させて考察を加えていく。また、なぜ神領の寄進行為がおこなわれたのかを、荒野などの開発の問題とあわせて考えていく。そして伊勢神宮領荘園において、寺院への寄進行為に神仏習合・神仏隔離の原則がどのように影響していたのか考えていきたい。



近世前期地域支配体制の変容と土豪

鈴木 直樹

 土豪をめぐる研究は、中世史・近世史双方からのアプローチによって、いま新たな展開を見せている。

 従来、土地所有論・経済論に基づく階級対立の視点から、土豪・侍衆は、村民と対立する存在として描かれてきた。しかし近年、社会集団論の手法を取り入れ、彼らは村や地域社会の人々の成り立ちに積極的に関与していたと評価されつつある。

 吉田ゆり子氏・小酒井大悟氏は、和泉国大鳥郡上神谷地域および当該地域の山支配を請け負う山代官、土豪小谷家を取り上げ、近世前期の土豪と地域社会の関係性を再検討した。両氏の研究から、土豪が、小百姓層の成長による一定の規制を受けつつも、新たに領主権力と結びつくことや経済的優位性を保持し続けることによって、地域内部における政治的な優位性を維持する実態が明らかになった。

 小谷家を地域社会でヘゲモニーを握る権力主体とせしめた要因の一つは、領主権力との結合である。しかし上神谷地域は、単一領主支配が行われたことに特徴を持つ地域である。先行研究を見ても、近世前期の関東のように、領主支配の錯綜や交代などの影響を受ける地域における地域権力の推移については、十分な検討がなされていない。領主支配の錯綜が見られず、地域的一体性の強い上神谷地域とは違い、領主支配の錯綜や交代が激しく、それにより地域秩序が大きく変化する関東では、地域権力としての土豪の政治的地位に、また違った様相が見られるのではないだろうか。さらに、「領」という北条氏の支城を中心とした領国支配単位が、近世に入っても継承・再編・拡大され、一定の機能を果たしていたことが関東の特徴として究明されている。この点も、領主の地域編成と土豪の地域社会における政治的な地位の変化を考える際に重要である。

 一九八〇年代後半以降の近世村落史研究や地域社会論は、領主による地域編成や政策の影響を強調する幕藩制国家論を相対化し、村や地域の自律的な社会像を示してきた。しかし渡辺尚志氏が提起するように、領主の交代や政策の変化などの影響を重視した一七世紀村落論の深化が、これからは重要であろう。

 そこで本報告では、近世前期の関東において、領主交代・新政策の導入・領主錯綜状態の進行などに伴い、地域権力としての土豪の政治的な地位がどのように変容するのかを解明する。

 分析対象とするのは、近世を通じて幕領であった武蔵国久良岐郡本牧領永田村(現、神奈川県横浜市南区永田)の名主服部家である。



日中戦争期華北占領地における対外関係の展開―北支那方面軍『月報』を手がかりに―

小野 美里

 日中戦争期中国戦線の現地軍は、その占領下に、中国人を擁立して複数の政権を成立させた。華北の北支那方面軍(以下、北支軍)の占領地には、一九三七年一二月「中華民国臨時政府(四〇年三月以降は華北政務委員会)」が成立する。従来当該地に関しては、経済・治安・文化の各領域、及び官製団体(新民会)等につき研究の蓄積があるが、北支軍が主導した占領地行政そのものに焦点を当てた研究は進展してこなかった。本報告が扱う同軍の対外業務についても、ほぼ関心が払われていない。だが同軍がいかに占領下の対外業務を担ったかは、現地政権の実態に関わる重要な問題の一つであり、その内実を明らかにする必要がある。本報告は、既往の研究で使われてこなかった北支軍『月報』を用い、同軍による対外業務の内容と変化を分析することで、当該地に展開した対外関係の一端を明らかにしたい。

 北支軍が主導した対外業務とは、その大半は「事変」下の占領地に存在した第三国の諸権益をめぐる摩擦の処理だった。ここで留意すべきは、この問題が局地的問題にとどまらず、その処理次第で国際問題に発展し得る状況にあったことである。占領下の第三国諸権益は、日中戦争が「事変」だったゆえに平時の権利を主張し、また本国との関係を盾に、支配当局と対峙した。対する北支軍は、「事変」ゆえに利敵行為に対する実力行使に制約がかかり、大枠では秩序への服従を強硬に求めつつも、現実には本国対本国の関係に規定された差別的対応を迫られた。第三国諸権益への対応は、治安維持上の懸案であると同時に、国際関係に影響を与える問題だったからこそ、北支軍の占領地行政の中で一定の比重を占め、「外交」工作として意味をもった。

 北支軍による「外交」にいち早く注目したものに、永井和の研究がある。永井は、華北占領地の英国権益(租界)をめぐる一連の外交問題に際し、北支軍が政府の外交から半ば独立した形で、封鎖という制裁手段により対応したことを、現地軍による「軍部外交」の一例と位置付けた(「日英関係と軍部」三宅正樹ほか編『大陸侵攻と戦時体制』第一法規出版、一九八三年)。本報告もこれに示唆を得ているが、当該地固有の「外交」については、他国への対応も含めた検討が、課題として残されている。また近年、日中戦争期の日本外交は、ヨーロッパ国際関係を見据えた多国間関係の中で捉えることが自明になりつつある。占領下の第三国権益への対応が「外交」工作としての意味をもつ以上、多国間関係の中で理解することが求められよう。

 以上をふまえ本報告ではまず、「事変」勃発後、占領地をめぐりいかなる外交問題が発生し、現地の対外業務の仕組みがいかに形成されたかを検討する。そのうえで、主に対英仏、対米、対枢軸国関係を軸に、アジア太平洋戦争勃発に至るまでの当該地の対外関係とその展開を見ていく。本報告で対外関係の展開という視角から、現地軍による占領地運営を捉えることにより、日中戦争期の華北占領地の特質を改めて考える足がかりとしたい。



「大東亜共栄圏」における「民族」の問題―ビルマ・シャン州をめぐって―(仮)

大堀 宙

 「大東亜共栄圏」という構想は、「民族自決」原理が広がった第一次世界大戦後の状況のなかで、いかに「帝国」を維持していくかという問題に対する一つの対応としての側面を持っていた。先行研究においても、知識人の議論など思想的なレベルではヴェルサイユ体制の「民族自決」原理自体が批判対象となり、新たな原理として「指導国」の下に統合する広域圏が構想されたことが指摘されている。その一方、実際の政策レベルについての研究では、脱植民地化の潮流のなか「民族自決」を求める東南アジア諸国と対峙した日本もまた、一定程度の「自主独立」を認める方針をとらざるをえなくなり、「大東亜共栄圏」が内部から崩壊していったことが論じられている。

 こうした日本の指導性やそれに抗する自主性といった問題は、「民族自決」を「民族」と「自決」の二つの側面に分けるとすれば、おもに「自決」に関わる問題だといえる。しかし同時代の状況のなかで「民族自決」や「独立」の問題を考える際には、そもそもその「自決」の単位として想定される「民族」をどのように捉えるかということも重要な論点であった。特に国民国家形成期の東南アジアが、多民族社会のなかでいかに「自決」の主体たる「民族(ネイション)」を成立させるかという難題と向き合っていたことを念頭に置くとき、そこに介入した「大東亜共栄圏」について考えるにあたっても、「民族」をめぐる問題を論じることが必要なのではないだろうか。

 こうした点から、本報告では「大東亜共栄圏」において「民族」をめぐる問題が浮き上がってきた事例として、ビルマ北東部のシャン州に対する日本の対応について分析していく。シャン州はタイ・ラオス・中国との国境に位置し、ビルマ民族とは言語的に異なるとされるタイ語系のシャン民族など「少数民族」が多く住む地域である。これらの国境線は英仏の植民地帝国とシャムや清の交渉で一九~二〇世紀に引かれたものであり、近年ではこれら四ヵ国にまたがる地域を「シャン(タイ)文化圏」として捉えることが提起され、国民国家の語りを相対化する視点として注目されてもいる。

 日本はアジア・太平洋戦争緒戦の勝利の勢いに乗じてシャン州を含むビルマ全土を占領するが、英領ビルマ時代からの分断統治という状況やシャン民族の「土侯」の意向、タイやビルマのナショナリズム、日本側の諸勢力の思惑などが交錯するなかでシャン州に対する日本の方針は二転三転し、最終的には州を二分割してタイとビルマに編入するというかたちで対応することになる。

 本報告では、こうしたシャン州の扱いをめぐる議論の過程を分析することを通じて、東南アジアの多民族社会に日本がいかに対応したのか(できなかったのか)を検討するとともに、「大東亜共栄圏」における「民族」問題の扱われ方について考察したい。

転換の時代を生きる人びと―「土豪」・「名望家」たちの果たした役割から

委員会

 東京歴史科学研究会では、四一回大会(二〇〇七年度)以来、基本テーマを「新自由主義時代の歴史学」として、労働や貧困、教育の問題を論じてきた。さらに東日本大震災が発生した翌年の四六回大会(二〇一二年度)以降は、人びとの「生存」を軸に企画を構想している。

 四七回大会(二〇一三年度)には、「『生存の危機』と人びとの主体性」とのテーマのもと、「生存の危機」に直面した人びとの主体性を歴史的に検討した。四八回大会(二〇一四年度)は、自然が作り出す「生存の危機」への人間社会の向き合い方を問うべく、多様な立場の人々の生活の基盤である「地域」に着目し、地域において人々がいかに生存を確保しようとしたのか、そのプロセスの解明を目ざした。四九回大会(二〇一五年度)は、客体とみなされてきた女性たちが、地域においてどのように生きようとしたのか、個々の生活領域に近接した次元でとらえ直すことを試みた。

 「生存」を取り上げた過去の大会で常に議論の俎上に乗せられたのが、人びとの「生存」を支えるセーフティネットとしての「共同体」であった。五〇回大会では、セーフティネットとしての「共同体」を主導し、地域に大きな影響を及ぼした存在である「土豪」・「名望家」に着目する。さらに、人びとの「生存」を脅かす諸問題を国家・社会の問題として総体的にとらえ直し、歴史的文脈の中で論じるべく、大きな転換があった二つの時期、中近世移行期と近世近代移行期を取り上げる。

 人びとの生命を守った家や村、地域における「共同体」の機能が徐々に変化し、あるいは失われ、その役割が国家へと回収されていく中で、「土豪」・「名望家」はどのように問題と対峙したのか。国家・社会の転換期における地域社会の軋轢・葛藤、新たな権力との関係の解明を通じて、「土豪」・「名望家」の主体性や地域の人びとの「生存」に果たした役割の変化について議論したいと考える。

 以上の問題意識から、長谷川裕子氏と三村昌司氏に報告を依頼した。長谷川報告は、戦争から「平和」へと社会の状況が変化する中で、土豪に求められた機能の具体像と変遷を分析し、人びとの「生存」を支えた村および地域社会の構造を解明する。三村報告は、近代に入り勃興した「名望家」を社会の中に位置づける作業を通して、近代社会と人びとの緊張関係、そして国家・「名望家」・地域住民の三者をアクターとした近代社会の構造的特質を論じる。

 これらの議論を通して、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)や安全保障体制など、国家・社会を取り巻く状況が大きく転換する現代に我々がどう生きていくべきかを考えていきたい。当日の活発な議論を期待する。

 


 

中近世移行期における土豪の機能とその変化―軍事・外交機能の消失と村役負担の観点から―

                        長谷川 裕子

本報告は、戦乱の世から「平和」な世への転換期である中近世移行期社会の移行過程を、人びとの「生存」という視角から見通すことを目的としている。戦争が頻発する戦国期から、慢性的飢饉状況の克服を目指した江戸時代前期社会において、人びとの「生存」を支えていた村および地域社会の構造を解明するためには、困窮する者への保護や救済を期待されていた土豪の位置づけが不可欠である。報告者は土豪について、すでに経済的動向を「融通」という観点から、また軍事的動向を「参戦の構造」という観点から追究してきた(『中近世移行期における村の生存と土豪』校倉書房、二〇〇九年・『戦国期の地域権力と惣国一揆』岩田書院、二〇一六年)。本報告は、これらの研究の一環として、戦争から「平和」へという社会構造の変化のなかで、土豪に求められた機能の具体像とその変遷について提示しようとする試みである。

そこで、まず第一に、戦争展開期における土豪の動向を、土豪の戦争参加および村に対する軍役負担の側面から検討したい。慢性的飢饉状況下において、非常時の生命維持装置の一翼を担っていた土豪は、人びとの「生存」維持の場面で自身の資本を拠出する一方で、戦乱からの保護を任された存在でもあった。そして戦国期には、権力に被官化した者と被官化していない者が、土豪という社会的身分として地域社会に混在し、かつ両者ともが戦時における武力担当者として広く認知されていた。その意味で、兵と農は分離していたといえるが、その前提の上で、本報告では戦国・織豊期における土豪の軍事動員の具体像と、少なくとも大坂の陣までは機能していたと捉えられる村の武力担当者という自己認識の変質過程について、権力側の政策および村における土豪の機能変化をふまえて、改めて追究していきたい。

そして第二には、国内外の戦場凍結後における土豪の動向を、村社会内部における役負担の違いと村内での軋轢という側面から検討したい。村の武力担当者であった土豪は、軍役を務める代わりに村役などの免除特権が村のなかで認められていた。しかし、これらの特権は参戦が必要なくなる世の展開にしたがい、徐々に村内で問題化されるようになる。江戸時代初頭から前期にかけての村内での対立は、従来より村方騒動論として議論されているが、村内での役負担の違いと、それに基づいた社会的身分をめぐる諸問題については、これまで原田敏丸氏や深谷幸治氏によって検討されつつも、いまだ中近世移行期研究のなかで位置づけられているとは言い難い。本報告では、江戸時代に展開する郷士制度や奉公人役の問題をも見据えて、土豪の身分的特権および村内における役負担構造の実態や変遷について具体的に追究していきたい。

以上の二点の検討を通じて、中近世移行期社会を論じる上で克服すべき議論としていまだ健在である太閤検地・兵農分離論、およびそれに基づく中近世の断絶という議論についても、報告者なりに考えていきたい。

 



近代日本社会における「名望家」の歴史的位置―兵庫県美嚢郡三木町玉置家を事例に―

三村 昌司

 本報告は、「名望家」を題材として、近代日本社会について考察するものである。

 近年の「名望家」研究は、近世近代移行期を中心として成果が多く出されている。なかでも、近世の豪農層が、幕末維新期から明治期にかけての社会変動をくぐり抜けるなかで、どのように地域社会において対応したか、という視角での成果が豊富である。

 このような視角に依拠した研究は、近世近代移行期における変動のさなか、「名望家」層及び地域社会がいかに対応・変質したかを明らかにしており、移行期の社会を考えるうえで重要な意味をもつ。

 しかし、「移行期の社会変動に人々がいかに対応したか」という問題意識だけでは、近代日本がいかなる構造を持っていたか、さらに人々がその構造といかに緊張関係を持ちながら生きていたかという視角に欠ける。

 そこでこの問題を考える補助線としたいのが「名望家」である。戦後歴史学において、「名望家」は、近代天皇制国家における支配の「導管」「媒介」としての役割を見出されてきた。かような見方は、支配(国家)―被支配(国民)の二元論的権力理解に依拠し、「名望家」を国家による国民統合を行う側と位置づけていた。むろん現在の研究水準では、二元論的権力理解はなされない。しかし、かような「名望家」研究には、権力論とは別に現在においても汲むべき点が残されているように思う。すなわち、「名望家」がいかに近代日本の社会構造に位置づけられていたか、という前述の視点である。

 とはいえ、手掛かりとなる議論はすでにいくつか提示されている。たとえば「地域利益」論である。かつては、権力が「地方利益」によって自由民権運動を統合するという捉え方であった。しかし近年では、地域社会秩序の安定化に寄与した可能性が指摘されている。

 また、近代日本社会と国民国家論の関係を問う議論も深められている。そのような議論を参考にすれば、国家・「名望家」・地域住民の三者をアクターとした近代社会理解を提示できるのではないか。

 以上のような問題意識から、本報告では、兵庫県美嚢郡三木町(現三木市)の玉置家を対象として、近代日本社会における「名望家」の歴史的位置を考えなおしてみたい。玉置家は、近世以来の「名望家」ではなく、近代に入り三木で勃興した家である。しかも、明治二〇年前後に代替わりをしている。それゆえに、より色濃く近代社会の特徴が反映された「名望家」たりえているのではないかと仮定し分析する。玉置家のような〈近代に急成長した名望家〉を取り上げることによって、近世近代移行期を対象に深められた「名望家」像の逆照射を試みる。そのうえで、日本の近代社会と人々の緊張関係を描き出したい。

※4/25・26開催の大会については、http://www.torekiken.org/trk/blog/taikai/49taikai.htmlをご覧ください。


【東京歴史科学研究会 第49回大会《委員会企画》報告準備会】
《女性の生存と労働―地域の戦後史―》

【報告】
高柳友彦「温泉観光地の戦後
      ―高度成長期熱海温泉における女性労働力の歴史的変容―」 
平井和子「敗戦・占領を生き延びる地域と女性たちのエイジェンシー」 

【日時】
 2015年3月21日(土) 14:00~


【会場】
 明治大学グローバルフロント403K教室
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/access.html

【資料代】
 実費をいただきます(予約不要)



【東京歴史科学研究会 第49回大会《個別報告》準備会(1)・前近代史部会】
東京歴史科学研究会の前近代史部会を開催します。
今回は、4月25・26日に開催予定の第49回大会・個別報告の準備報告会(1)です。
どなたでも参加できますので、お誘い合わせのうえふるってご参加ください。

【日時】
2015年3月6日(金) 18時30分〜

【会場】
学習院大学目白キャンパス北2-212(北2号館2階)
http://www.gakushuin.ac.jp/mejiro.html

【報告】
石田出「戦国期室町幕府における別奉行制の展開」

【資料代】
実費をいただきます(予約不要)




【東京歴史科学研究会 第49回大会《個別報告》準備会(2)・近代史部会&前近代史合同部会】

東京歴史科学研究会の近代史&前近代史合同部会を開催します。
今回は、4月25・26日に開催予定の第49回大会・個別報告の準備報告会(2)です。
どなたでも参加できますので、お誘い合わせのうえふるってご参加ください。
近代史部会ウェブサイトもご覧ください。http://trkkindai.blogspot.jp/2015/02/49.html

【日時】
2015年3月15日(日) 13時〜

【会場】
明治大学駿河台キャンパス 猿楽町校舎 史学地理学共同演習室
http://www.meiji.ac.jp/koho/campus_guide/suruga/campus.html


【報告】
佐藤麻里「徳川将軍の葬送と江戸」(仮)
中村江里「「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神神経疾患をめぐるポリティクス」
山本 耕「一九三三年から一九四三年のフランスにおける難民問題とユダヤ系フランス人―レモン・ラウル・ランベールの国民観―」(仮)

【資料代】
実費をいただきます(予約不要)

【東京歴史科学研究会 第49回大会・総会】

第1日目 2015年4月25日(土) 
《総会》 10:00~(開場9:30)
 ※年会費を4500円に改定する提案を、委員会よりおこなう予定です。

《個別報告》 13:00~(開場12:30)

第2日目 2015年4月26日(日)
《委員会企画》 13:00~(開場12:30)

■女性の生存と労働―地域の戦後史― 【趣旨文】


【会場】明治大学グローバルフロント1F多目的室 【地図】

【参加費】600円

pdficon_large.gifPDFポスター

女性の生存と労働-地域の戦後史-

委員会

 女性を受動的な客体と見なす幻想は、現代社会において依然として根強い。また、女性の力を活用すると高言しながら、旧態然たる性別分業観を温存させ、矛盾を女性にしわよせする手口は、現政権を含め多数の先例がある。女性の生存と労働を、その実態に即して再検討すること。これは、隠蔽された社会構造の暗部を可視化するために、何度でも試みられなければならない課題である。

 東京歴史科学研究会では、2011年度の大会まで数度にわたり「新自由主義時代の歴史学」を基本テーマにすえ、労働や教育の問題、地域史研究や対抗運動の可能性などを論じてきた。2012年度以降は、東日本大震災と福島第一原発事件の経験もふまえ、「生存」の問題を主軸に企画をたてた。これらの大会で浮かび上がってきた論点は、競争原理や差別・排除の問題、あるいは代案としての共同性や救済される側の主体性、生存をめぐる主体間の葛藤など多岐におよぶ。これらの諸問題は今日、むろん後景に退いたわけではない。状況はむしろ悪化する傾向にさえある。

 以上のことを念頭に置きながら、今年度の大会では、「女性の生存と労働-地域の戦後史-」と題し、女性の多様な生存戦略を、地域の実態に即して多元的に明らかにしたいと考える。女性に焦点をあてた理由は、ともすれば受動的な客体とみなされ、そうした幻想がこれまでに、多数の有害な神話を流通させてきたからであり、性に関する様々なステレオタイプを再生産してきたからである。今回取り上げる「売春婦」や「パンパン」はその最たる例であるし、高度成長期の女性の就労や生活についても、その内実は一様ではない。それらを、国家や世界情勢との関係だけではなく、個々の生活領域に近接した次元でとらえなおすこと。今大会で「地域」と称する所以である。そうすることで、人間関係の諸相をリアルに浮き彫りにすると同時に、ジェンダーの視点を鍛え、性に対する多様な認識を得るきっかけとしたい。

 そこで、まず高柳友彦氏には「温泉観光地の戦後―高度成長期熱海温泉における女性労働力の歴史的変容―」と題して、戦後から高度成長期にいたる女性労働の諸構造を、熱海という地域に即して論じてもらう。戦前から開発が進む熱海には、温泉地特有の経済構造を背景にして、さまざまな女性が移り住んだ。そうした女性たちの内実を、経済史の観点から可能なかぎり省察していただく。

 次に、平井和子氏には「敗戦・占領を生き延びる地域と女性たちのエイジェンシー」と題し、熱海におけるRAAや占領軍「慰安所」の実態と、「パンパン」たちの姿、彼女たちを引きつけた熱海という地域を、同時代の御殿場との比較を通して、敗戦から売春防止法の施行(1958年)までの時期を中心に論じてもらう。米軍占領という構造的暴力の下で、性労働に携わる女性たちが自らの生存戦略を駆使するあり様と、「働く女の街」熱海の地域性が多角的に浮き彫りにされよう。

 これらの議論を通して、今日、安易な神話や一般論に堕することなく、具体的な個々の実像を地域の戦後史に位置づける適切な視座が得られれば幸いである。

 


 

温泉観光地の戦後―高度成長期熱海温泉における女性労働力の歴史的変容―

                        高柳友彦

本報告の課題は、高度成長期に日本最大の温泉観光地として発展を遂げた静岡県熱海温泉(行政区分では熱海市)を対象として、女性労働力のありようが地域経済の発展・変容過程とどのような関わりを有していたのか、観光地間競争や労働市場の展開など周辺地域との関係に留意しながら、戦後の温泉観光地における女性労働力の動向を明らかにすることである。

明治期に年間四百万人程度であった全国の温泉地利用客数は、高度成長期に一億人を突破した。企業の社員旅行や招待旅行など団体旅行の普及によって、それまで湯治療養の場であった温泉地は大量の団体客を受け入れる遊興、行楽の場へと変化したのであった。大量の利用客を抱えた温泉地では、旅館数の増加や施設の大規模化が進展する一方、温泉資源や人的資源の管理が課題となった。温泉資源については、源泉湧出量の増加が求められたため、多くの温泉地で源泉の集中管理事業が採用され、持続的かつ効率的な源泉利用・管理が実現した。一方、利用客へのサービスを提供する女性労働力の確保が人的資源の課題として残された。旅館の仲居や女中、商店員、バスガイドなど、観光産業の様々な業種に従事する労働力の多くは女性労働力に依存していたからであった。温泉地は、そうした観光産業に従事する様々な女性たちが集住し、それぞれの生活が複雑に交錯する場でもあった。女性労働力に依存する温泉地の経済・社会構造は、彼女らのライフコースの動向に大きな影響を受けていたのである。 

本報告が対象とする静岡県熱海温泉は、高度成長期に日本最大の温泉観光地に成長した伊豆を代表する温泉地である。熱海で必要な労働力は、伊豆半島の他地域(賀茂郡・田方郡)や神奈川県から、主に十代の若年女性の大量流入によって支えられた。ただ、近隣の沼津・三島地域での第二次産業(繊維・機械など)の労働力需要の高まりから労働市場は逼迫した。利用客数の増加によって発展を遂げた熱海であったが、一九五〇年代後半には女性労働力の調達が困難な状況を迎えていたのである。不足する労働力を補うため、旅館組合による集団就職の斡旋も行われ、北海道、青森などから毎年百~二百人程度の季節従業員を受け入れ対応した。また、伊豆急行が開通した一九六〇年代以降、東伊豆(熱川・稲取など)、南伊豆の観光地開発が進められ観光地間の競争が激化した結果、熱海は利用客数の減少に陥った。熱海の観光地としての競争力低下は、若年女性労働力の吸引にも大きな影響を与え、増加していた人口は減少に転じた。一方、不足する労働力はパートや中高年女性など様々な女性労働力を多用していくこととなった。報告では熱海における女性労働力の動向とともに、有配偶率や移動の状況など女性のライフコースに関わる特徴についても考察していく。

 



敗戦・占領を生き延びる地域と女性のエイジェンシー

平井和子

 戦後七〇周年を迎え、日本軍「慰安婦」問題をめぐる議論は、歴史研究のレベルでも、国民間の歴史認識をめぐる対立においても、国際関係においても混迷を極めている。元「慰安婦」の名乗り出から二四年、この間、置き去りにされてきた日本人「慰安婦」の存在は、慰安婦=売春婦/性奴隷という対立の構図が先鋭化するなかで、今こそ直視すべき人々として重要さを増している。そして、日本人「慰安婦」は占領軍「慰安婦」に連続する。

日本軍「慰安所」は発想と手法において、敗戦後、日本政府が設置した占領軍「慰安所」に連続し、RAA(Recreation Amusement  Association )などに集められた「慰安婦」たちは、相手こそ違え、兵士への性的「奉仕」を強いられたという点で、日本軍「慰安婦」たちと繋がるものである。ルポルタージュや小説などは戦後早い時期に量産されながらも、RAAや占領軍「慰安所」は、歴史研究としては取り組みが遅れている。本報告では、拙著『日本占領とジェンダー 米軍・売買春と日本女性たち』(有志舎、二〇一四年)、および拙稿「RAAと『赤線』―熱海における展開」恵泉女学園大学平和文化研究所編『占領と性 政策・実態・表象』(インパクト出版会、二〇〇七年)をもとに、RAAや占領軍「慰安所」の実態と「パンパン」と呼ばれた女性たちのあり様を、熱海という地域に焦点をあてて考察する。できる限り、性労働の場で働く女性たちの置かれていた厳しい状況を踏まえつつ、彼女らの能動性にも価値を見出したい。それはまた一方で、敗戦と占領という「未曽有の危機」を敗戦国政府と地方が、どのように「平和的に」やり過ごそうとしたのかの検証でもある。報告は以下の二点に重点を置くつもりである。

 

一、RAAと占領軍「慰安所」の熱海における展開

 熱海の中心街を流れる糸川付近は、丹那トンネル開通後(一九三四年)、料理屋、待合、置屋、カフェー、遊技場が密集し私娼街を形成した。敗戦後、一九四五年一〇月から四六年三月にかけて、熱海市内に三か所、隣接する箱根に一か所RAA施設(旅館二、ダンスホール一、性的慰安所一)が開設した。また、地元業者も占領軍兵士向けの性的「慰安」を開始した。RAA旅館で働いた元職員と、米兵を最初に受け入れた業者の証言をもとに、熱海における占領軍「慰安所」の特徴を明らかにする。

二、米軍が「休養」に訪れる温泉歓楽街・熱海=「働く女がささえる街」

 一九五〇年四月の「熱海大火」以後、六月の朝鮮戦争開始がきっかけとなって、「パンパン屋」が増加し、「糸川べり」は赤線化していく。御殿場や神奈川県の米軍基地から休日を過ごす米兵の受け入れ先となったのである。同時期、基地周辺に集娼地区が形成された御殿場における住民の「パンパン」への視線と比較しつつ、熱海における地元住民の性産業従事者への親密なまなざしを紹介する。それは、戦前から熱海が「働く女がささえる街」であったことと関連していると考えられる。

戦国期室町幕府における別奉行制の展開―武家祈祷の事例を手がかりとして―

石田 出

 室町幕府における「別奉行」は、山門や東寺、石清水八幡宮など有力な寺社ごとに個別に設置された担当の奉行人のことで、主に訴訟において寺社側からの働きかけに対する窓口となり、その便宜を図るために奔走した。さらにこのような公的な関係にとどまらず、日常的にもそれぞれ私的な関係を構築していたという。よってこの別奉行制の解明は、幕府の寺社政策や寺社との具体的交渉過程を明らかにする上で有効であると考える。

 これまで別奉行の実態及び役割については青山由樹氏・今谷明氏によって基礎的な考察や整理がなされている。さらに室町後期訴訟制度の観点から盛んに研究がなされ、鳥居和之氏・松園潤一朗氏により義教・義政期における訴訟制度の転換と別奉行の拡充とが関連付けられており、家永遵嗣氏は「別奉行」制の淵源を南北朝期の「担当引付方」制度に求めている。

 このように別奉行の存在形態は明らかにされつつあるが、奉行人奉書が主要な幕命下達文書となる義政期以降、別奉行の活動に変化があったかどうかについては具体的に明らかにされておらず、検討の余地がある。特に一五世紀末の明応の政変を境として、東寺に対する幕府の祈祷命令が伝奏奉書から奉行人奉書へ切り替わる現象を富田正弘氏が指摘している。この指摘を踏まえ、今回は戦国期の武家祈祷実施における別奉行の関与に着目し、この時期の別奉行制の実態を明らかにしたいと思う。

 本論ではまず富田氏説の検証を行う。明応の政変以降の東寺武家祈祷に対する奉行人の関与が果たして幕府全体の動向に敷衍できるかどうか、東寺以外の他の寺社の事例を集めた上で検討する。そして実際に別奉行が奉行人奉書を通じて武家祈祷に関与するようになる画期を見出す。

 続いて義澄期・義稙期(再上洛後)における別奉行の抽出・個別分析を行う。明応の政変後の義澄期において武家祈祷を命じる奉行人奉書ではほとんどの場合別奉行が加判しており、別奉行の恒常的な武家祈祷への介在が認められる。さらに義稙期になると、別奉行の他に祈祷奉行が固定して関与する体制が新たに構築されることを確認する。

 このような別奉行が恒常的に武家祈祷に介在するようになる状況は、その背景を考えるにあたり、当時の公武関係の変質、別奉行と結びつく権門寺社側の事情などを顧みる必要がある。研究の蓄積のある訴訟の場での当該期別奉行の関与にも言及し、具体的活動・役割の変化とその背景を考察する。

 以上、戦国期における別奉行の活動実態・別奉行制の展開を明らかにした上で、さらにこの時期において別奉行制が変容することの意義についても言及する。



徳川将軍の葬送と江戸の町

佐藤麻里

 昭和六十四年(一九八九)一月七日、昭和天皇の死が公となった。昭和天皇の死と大喪を契機に、歴史学の分野では、天皇の葬送・代替り儀礼が持つ国家・国民の統合機能が注目され、多くの研究が世に出された(中島三千男など)。黒田日出男が前近代における天皇・将軍死去時の服喪について取り上げると、近世史ではそれを引き継ぐ形で、権力者死去時に諸事を慎むことを命じた「鳴物停止令」の研究が相次いだ(中川学など)。しかし天皇・将軍の葬送儀礼自体に関する研究は、あまり進展していないのが現状である。

 二宮宏之は、絶対王政期フランスにおける国家儀礼として成聖式、王の葬儀、親裁座、入市式・行幸を挙げ、これらが公開性を前提としており、王の権威を示す上で重要であったとしている。近世の「王」が天皇か将軍かという問題は置くとしても、近世の国家権力は、将軍を中心に、天皇・公家・寺社・武士などの諸勢力が編成されたものである。将軍の死は、徳川家の当主(前当主)が亡くなるというだけでなく、国家の中心的存在を喪うことである。将軍葬送を分析することは、将軍権力、そしてその将軍を中心とした近世国家・社会の権力構造を明らかにすることでもあると、報告者は考える。

 渡辺浩は、将軍の「御成」行列の威厳はすさまじく、ほとんど「御神体」の渡御であり、行列は支配身分の威勢を顕示し、格式の序列を一層強化する機能を持ったこと、日光社参行列は「建国神話」の儀式的再現であったことなどを指摘している。その日光社参については、大友一雄・根岸茂夫らのより詳細な研究が存在する。両者は日光社参時の行列に動員された大名の編成や序列、通行する町々の対応を検討した。また根岸は、将軍の上洛行列についても同様に分析している。

 行列通行時の対応はほかに、久留島浩が、歓迎儀礼として行列通行の道筋で行われる「馳走」について、幕藩領主間の関係が直接反映され、民衆は領主間の「馳走」の一端を強制的に担わされており、町共同体がそれを可能にしたと述べている。

 すなわち将軍の行列は、軍事的性格を帯びた、武家の頂点たる将軍の権威を示すためのもので、そこに武家の身分的秩序が具現化した。行列通行時の町村の対応も、将軍権力を公に示す手段として権力に強制された「演出」であったというのが、先行研究の成果である。

 しかるに葬列は、権威を示すべき将軍は亡くなっており、行列の編成や道々の様子も異なる。将軍葬送は、幕府にとって、葬列が通行する町々にとって、どのような意味を持ったのか。将軍とはどのような存在だったのか。本報告では①将軍の葬列の編成、②葬列通行時の警固体制、③葬列通行時の江戸の対応を検討し、将軍葬送時の江戸で展開される近世国家・社会の権力構造の解明を目指す。



「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神神経疾患をめぐるポリティクス

中村 江里

 近代以降日本が行ってきた対外戦争は、自国の軍隊においても多数の戦傷病者を生み出したが、彼らの社会における位置は、その呼称とともに変遷してきた。総力戦においては、かつて「廃兵」として国家からほとんど支援が得られなかった戦傷病者たちを、「白衣の勇士」である「傷痍軍人」として称揚し、彼らを戦時労働力として再統合する力が働いたことを軍事援護研究は明らかにした。そして、このような戦争で「名誉の傷痍」を負った人びとの称揚は、一般の障がい者とは明確に差別化される形でなされた。

 しかしながら、そこで主な研究対象となっている「傷痍軍人」とは身体に傷を負った人びとであり、心の傷が戦時下の日本社会でどのような位置をしめていたのかについてはほとんど明らかになっていないと言って良い。本報告は、戦争と精神神経疾患に関する言説や構造と実態を分析し、戦時下における「傷痍軍人」の「統合」を再考する試みである。

 十五年戦争は、精神神経疾患兵士に対する国家的なケアがなされるようになった初めての戦争であった。一九三八年以降、国府台陸軍病院が精神神経疾患専門の治療機関として機能するようになり、一九四〇年に精神疾患を対象とした傷痍軍人療養所である武蔵療養所が設立されたことはその証左であろう。このような福祉領域への国家の介入は、近年明らかにされつつある総力戦と「福祉国家」ないし「社会国家」化という問題とも関連している。

 一方、総力戦下では「国民」から排除されてきた「二級市民」が「国民」の名のもとに包摂される力学が働くが、そのような「平準化」を装いながらも排除や差別化を内部にはらんでいた。本報告では、傷痍軍人保護事業における医療保護・職業保護・一般国民の教化において精神神経疾患がどのように扱われていたのかを検討し、「傷痍軍人」の内部にある「差異」を明らかにする。また、「人的資源」の活用という国家の要請に従い、精神神経疾患の中でも様々な「差異」の境界線が引き直された。戦闘との関連がわかりやすい頭部負傷後の精神障がいは、偏見の払拭に力が入れられた。これに対して、「疾患への逃避」が原因であると考えられたいわゆる「戦時神経症」の患者達に関しては、「白衣の勇士」と呼ぶに値するのかどうかという疑問の声が、国府台陸軍病院の軍医たちからは出ていた。このような戦病者を取り巻く社会・文化的構造は、自らの病をどのように表現していくのか(いかないのか)ということと関わっているという点についても、本報告ではあわせて検討していきたい。



一九三三年から一九四三年のフランスにおける難民問題とユダヤ系フランス人―レモン・ラウル・ランベールの国民観―(仮)

山本 耕

 一九三〇年代のフランスは恐慌の波及、政治の分極化や仏独間の軍事的緊張といった国内外の諸要因によって動揺しており、一九四〇年には第二次世界大戦における対独敗北の結果、第三共和政が崩壊した。この時代に国民的課題となっていたのが、ヒトラー政権成立以後中東欧から流入していた難民への対処であった。フランスは一九世紀以来多くの移民を受容し、それに伴い彼らとの摩擦も生じていた。難民の存在は外国人への潜在的敵意の発火点のひとつとなり、難民問題は外国人問題へと拡大していった。これらの難民の大半をユダヤ人が占めていたがゆえに、国内のユダヤ人コミュニティは彼らへの対応を迫られていた。だがユダヤ人指導者たちはその活動方針を巡って対立したのである。

 先行研究はユダヤ系フランス人とユダヤ系移民という大きく異なる背景を持った人々の間だけではなく、それぞれのコミュニティ内部にも対立が存在したことを明らかにしてきた。さらにユダヤ系フランス人指導者の動向に注目し、それを難民問題へ影響を及ぼした主要因のひとつとしてフランス社会全体の中に位置づける研究が登場しているが、彼らがいかなる主張を唱え、その活動をどう正当化していたのかは本格的な研究対象になってこなかった。しかし彼らの主張を明らかにすることは当時のフランス社会を理解する上で重要な意味を持つ。難民、さらには外国人の処遇に関する問題は、フランス国民の性質や国家制度の在り方を巡る議論と連動しており、ユダヤ系フランス人指導者の主張もまたそうした文脈の中で発されたものだった。この議論の中で、フランスへと「同化」してきたユダヤ系フランス人は国民と外国人の境界に立たされ、フランス国民としての自己主張をせざるを得なかった。ユダヤ系フランス人指導者の主張に対する分析は、彼らが国民性をいかに解釈し行動したのかということを明らかにするだけではなく、二〇世紀半ばのフランスにおいて巻き起こっていた国家制度をも問う大きな議論の一端を解明することにもつながるのである。

 本報告はその一事例として、親難民的活動を行った指導者レモン・ラウル・ランベール(一八九四―一九四三)に焦点を当てる。彼は外務官僚や難民支援団体幹部を務める傍ら、ユダヤ人新聞Univers israéliteの編集長として意見を発信し、さらにヴィシー政権期には自身の活動について日記に書き残していた。それらを手掛かりとして、難民問題発生からアウシュヴィッツにおけるランベールの死亡までの一〇年間を対象とし、その間に彼が祖国フランスやそこで生きるフランス国民としてのユダヤ人をいかに定義していたのかを明らかにすることが本報告の目的である。