【第46回大会】《委員会企画》レジュメ(報告要旨)

〈弱者〉の生存と「共同性」
委員会

 三・一一の東日本大震災と原発事故の発生は、人びとの生命や生存の問題を喫緊の問題として認識させることとなった。特に現在、災害史研究が見直されるなかで、歴史学が生存問題にどう向き合ってきたのかが問われている。もちろん近年の歴史学は、現在の世界的潮流である「新自由主義」に関する検討を行い、現在もなお絶えず生み出されてくる貧困や排除の実像、生き残りの方法に関する研究を進めつつある。東京歴史科学研究会においても、二〇〇七年に「『新自由主義』時代の歴史学」というテーマで大会を企画して以来、新自由主義に対する方法的・実践的批判にむけた議論を積み重ね、昨年度大会では競争社会において強要される自己責任観念と、競争が再生産する差別と排除の問題、さらにはそれに対抗するための「共同性」がもつ両義的な性格について歴史学的に検討し、新自由主義に対抗する「新たな共同性」を考える道を模索した。
 しかし、共同体が、しばしば人びとを排除するものである一方、それと区別される「共同性」については昨年の委員会企画でも、その両義性が議論となった。本年度の大会ではまさに生存と「共同性」の問題を再び設定すると同時に、共同体さらには「共同性」からも排除されてしまう人びとの生き残りの仕組みが、どのように可能であるのかを考えていく。災害後に形成される「災害ユートピア」や、災害時に限らず排除・差別された人びとを支援する各種NPOなどの活動にみられるように、生存の危機にある人びとを救済する仕組みは、日常の可視的な共同体や、すでに存在する「共同性」とは別の位相に形成されるかも知れない。したがって、現在の生存問題を検討するには、こうした生存の危機にある人びとへの救済システムの歴史的展開を分析し、そこから「新たな共同性」を構築していく必要があると考える。
 以上の問題意識から、本年度大会は、生存の危機にある人びとを〈弱者〉と定義した上で、「〈弱者〉の生存と『共同性』」というテーマを設定し、前近代から近代社会における生存問題を検討する。その際、特に共同体の外部に存在し、または既存の「共同性」からもはみ出し、あるいは一定の緊張関係に置かれる可能性がある人びとに焦点を合わせることになろう。具体的な論点としては、身分制や競争社会が生み出した弱者の実像や、彼らに対する救済の場と方法、さらには弱者を含めた万人を生かそうとする社会・意識の形成過程などがあげられよう。
これらの課題を議論するため、東島誠氏には弱者への救済方法の具体像と共同体との関係、また救済を当然とする意識の形成過程について、室町期から江戸後期までを視野に入れて検討していただく。また、小林丈広氏には、江戸後期における都市の救済活動を具体化し、そこにおける町共同体の役割や、金銭の拠出者を「仁風」と称した人びとの意識、さらには救済方法の歴史的変遷を、明治期への移行を見通して検討していただく。コメントは、近現代史において生存の問題を考察された大門正克氏にお願いした。参加者との実りある討論が展開されることを期待したい。



中世後期~近世都市にみる弱者と生存―合力の論理と排除の論理の関係性について―
東島 誠

 本報告に与えられた課題は、「弱者への救済方法の具体像と共同体との関係、また救済を当然とする意識の形成過程について、室町期から江戸後期までを視野に入れて検討」することである。
 まず第一に、〈被災者〉と〈被差別民〉の間に境界線を引く思考、を問題にしたい。飢饉や災害における〈被災者〉としての「飢人」の一方で、都市には圧倒的多数の日傭層、下層民衆が恒常的に存在し、さらには「無宿」、「野非人」にいたるまで、貧困、弱者そのものが階層性をなしている。飢饉・災害時には都市民自身が新たに「非人」身分へと転落する可能性を有しており、第一次救済(御施行)と第二次救済(御救米)の間に「飢人」の「仕分け」が行なわれ、引きつづき給付を続けるべきと判断された「極貧者」と、以後は給付を行なわないと判断され「非人手下」へと組み込まれる者へと分けられることになる。
 今日、身分制度自体は形式上撤廃されていても、貧困の階層性は厳然としてあり、さらに〈格差社会〉の拡大は、形式的平等を逆手に取った〈自己責任〉論を浮上させているが、災害は、〈不可抗力による(自己責任でない)弱者〉と〈自己責任に帰すべき弱者〉という「仕分け」の意識を増幅しやすい危険性をはらむ。川浪剛氏は、今次の東日本大震災の支援活動に携わる中で、「ある避難所で、自分がホームレス支援団体に所属している者であると名乗ったら、口元をニヤリと緩めた世話方の人があった。あのような人々と今の私たちの置かれた状況とはまったく違う。自己責任と天災で家を失ったのは別もの。とても失礼だ、ということを存外に含んでいるかのようだった」という事例に触れておられるが(「東日本大震災復興支援の中で感じた問題」、『ホームレスと社会』五号、二〇一二年)、遡って一八八一年、『朝野新聞』と『東京横浜毎日新聞』の間で戦わされた「貧民救助」をめぐる論争もやはり、政府や社会に「貧人を救助するの義務」があるとする論調と、貧困は「自己一人の不注意」によるものとする〈自己責任〉論との争いであった。では近代以前の身分制社会のもとでは、いったいどのような意識のもとで「救済」が行なわれていたのか、改めて考えていきたい。
 第二に、弱者の居住空間のクリアランスに見る、公権力と都市民の共犯関係についても論じたい。すでに報告者は、十六世紀末に豊臣秀吉が、一方で新名所「大仏殿」を建て、低金利の融資(四千貫文貸付)によって京都の都市民の支持をとりつけつつ、それとひきかえに、鴨川に架かる五条橋の途上にあった中島のクリアランス(弱者の排除)を行なったこと(『自由にしてケシカラン人々の世紀』講談社選書メチエ、二〇一〇年)、また十七世紀末から十八世紀初頭、江戸の両国橋の架け替えにともなって、回向院の意味づけが〈再定義〉され、両国橋界隈のリニューアルが行なわれたこと(『〈つながり〉の精神史』講談社現代新書、二〇一二年)、を論じたが、こうした、弱者を視界から見えなくする操作についても考えていきたい。




仁風の思想
小林丈広

  本報告は、日本史研究における近世史と近代史の断絶を報告者なりに克服しようとする試みである。報告者は、近年、飢饉などに際して都市における救済がどのようになされたかについて検討を行っている。本報告はそうした作業の一環として、京都における都市の救済活動の具体像を再検討しようとするものである。
 すでに、近世中後期に繰り返された飢饉、とりわけ都市における米価高騰時における救済活動については、松本四郎氏や吉田伸之氏、北原糸子氏らの研究がある。本報告の起点を享保期に求めたのは、北原糸子氏がこの飢饉を非人施行から惣町施行への転換期、吉田伸之氏が三井家による惣町施行の始期と位置づけ、ともに重要視していることによる。また、北原・吉田両氏は、ともに『仁風一覧』を利用しているが、主たる分析対象は江戸と大坂に絞られており、京都に関する記述は十分検討されていない。また、かつて朝尾直弘氏が元禄期の町触などを分析し、救済における町の役割とその限界に言及しているが、両氏の研究では町の役割についてはあまり関心が払われていない。
 『仁風一覧』は、救済のために金穀を拠出した有力商人や寺院、町などを網羅した記録であるが、金穀の一部は書かれていても、救済の具体像は明らかにならない。そこで、「虫附損毛留書」の記述と比較することで、『仁風一覧』の編集過程や内容の検討を行い、その実態に迫ることにしたい。これまでほとんど分析されてこなかった京都の救済活動についても、こうした方法によってある程度再現することができるものと考える。
 また、報告者の最近の仕事としては、嘉永期の救済の記録である「仁風扇」を手がかりに、横井小楠の書状や町文書などの記載と比較することによってその実像を探ったもの(「幕末維新期の都市社会―都市行政の変容と町奉行所与力―」(宇佐美英機・薮田貫編『〈江戸〉の人と身分1都市の身分願望』所収)、慶応期の救済の記録である『仁風集覧』を手がかりに、そこに記載された商人や町の名前をひとつひとつ分析することによって、幕末における社会の変化と政治との関わりを探ったもの(「嘉永の施行における町の役割」(『ヘスティアとクリオ』第一〇号))、さらに、慶応期の救済に関わりながら、明治維新後に大年寄などの公務に関わり、草創期の行政を担った人物たちを検討したものなどがあげられる(「明治維新期の「市長」」(『奈良史学』第二九号))。
 本報告では、それらの記録に共通する「仁風」という言葉に着目し、その意義についても考えることにしたい。「仁風」は、近世中後期における公共の担い手の登場にともなって用いられるようになり、近代社会の担い手へとつながるものといえるのではないだろうか。