【第49回大会】《個別報告》レジュメ(報告要旨)

戦国期室町幕府における別奉行制の展開―武家祈祷の事例を手がかりとして―

石田 出

 室町幕府における「別奉行」は、山門や東寺、石清水八幡宮など有力な寺社ごとに個別に設置された担当の奉行人のことで、主に訴訟において寺社側からの働きかけに対する窓口となり、その便宜を図るために奔走した。さらにこのような公的な関係にとどまらず、日常的にもそれぞれ私的な関係を構築していたという。よってこの別奉行制の解明は、幕府の寺社政策や寺社との具体的交渉過程を明らかにする上で有効であると考える。

 これまで別奉行の実態及び役割については青山由樹氏・今谷明氏によって基礎的な考察や整理がなされている。さらに室町後期訴訟制度の観点から盛んに研究がなされ、鳥居和之氏・松園潤一朗氏により義教・義政期における訴訟制度の転換と別奉行の拡充とが関連付けられており、家永遵嗣氏は「別奉行」制の淵源を南北朝期の「担当引付方」制度に求めている。

 このように別奉行の存在形態は明らかにされつつあるが、奉行人奉書が主要な幕命下達文書となる義政期以降、別奉行の活動に変化があったかどうかについては具体的に明らかにされておらず、検討の余地がある。特に一五世紀末の明応の政変を境として、東寺に対する幕府の祈祷命令が伝奏奉書から奉行人奉書へ切り替わる現象を富田正弘氏が指摘している。この指摘を踏まえ、今回は戦国期の武家祈祷実施における別奉行の関与に着目し、この時期の別奉行制の実態を明らかにしたいと思う。

 本論ではまず富田氏説の検証を行う。明応の政変以降の東寺武家祈祷に対する奉行人の関与が果たして幕府全体の動向に敷衍できるかどうか、東寺以外の他の寺社の事例を集めた上で検討する。そして実際に別奉行が奉行人奉書を通じて武家祈祷に関与するようになる画期を見出す。

 続いて義澄期・義稙期(再上洛後)における別奉行の抽出・個別分析を行う。明応の政変後の義澄期において武家祈祷を命じる奉行人奉書ではほとんどの場合別奉行が加判しており、別奉行の恒常的な武家祈祷への介在が認められる。さらに義稙期になると、別奉行の他に祈祷奉行が固定して関与する体制が新たに構築されることを確認する。

 このような別奉行が恒常的に武家祈祷に介在するようになる状況は、その背景を考えるにあたり、当時の公武関係の変質、別奉行と結びつく権門寺社側の事情などを顧みる必要がある。研究の蓄積のある訴訟の場での当該期別奉行の関与にも言及し、具体的活動・役割の変化とその背景を考察する。

 以上、戦国期における別奉行の活動実態・別奉行制の展開を明らかにした上で、さらにこの時期において別奉行制が変容することの意義についても言及する。



徳川将軍の葬送と江戸の町

佐藤麻里

 昭和六十四年(一九八九)一月七日、昭和天皇の死が公となった。昭和天皇の死と大喪を契機に、歴史学の分野では、天皇の葬送・代替り儀礼が持つ国家・国民の統合機能が注目され、多くの研究が世に出された(中島三千男など)。黒田日出男が前近代における天皇・将軍死去時の服喪について取り上げると、近世史ではそれを引き継ぐ形で、権力者死去時に諸事を慎むことを命じた「鳴物停止令」の研究が相次いだ(中川学など)。しかし天皇・将軍の葬送儀礼自体に関する研究は、あまり進展していないのが現状である。

 二宮宏之は、絶対王政期フランスにおける国家儀礼として成聖式、王の葬儀、親裁座、入市式・行幸を挙げ、これらが公開性を前提としており、王の権威を示す上で重要であったとしている。近世の「王」が天皇か将軍かという問題は置くとしても、近世の国家権力は、将軍を中心に、天皇・公家・寺社・武士などの諸勢力が編成されたものである。将軍の死は、徳川家の当主(前当主)が亡くなるというだけでなく、国家の中心的存在を喪うことである。将軍葬送を分析することは、将軍権力、そしてその将軍を中心とした近世国家・社会の権力構造を明らかにすることでもあると、報告者は考える。

 渡辺浩は、将軍の「御成」行列の威厳はすさまじく、ほとんど「御神体」の渡御であり、行列は支配身分の威勢を顕示し、格式の序列を一層強化する機能を持ったこと、日光社参行列は「建国神話」の儀式的再現であったことなどを指摘している。その日光社参については、大友一雄・根岸茂夫らのより詳細な研究が存在する。両者は日光社参時の行列に動員された大名の編成や序列、通行する町々の対応を検討した。また根岸は、将軍の上洛行列についても同様に分析している。

 行列通行時の対応はほかに、久留島浩が、歓迎儀礼として行列通行の道筋で行われる「馳走」について、幕藩領主間の関係が直接反映され、民衆は領主間の「馳走」の一端を強制的に担わされており、町共同体がそれを可能にしたと述べている。

 すなわち将軍の行列は、軍事的性格を帯びた、武家の頂点たる将軍の権威を示すためのもので、そこに武家の身分的秩序が具現化した。行列通行時の町村の対応も、将軍権力を公に示す手段として権力に強制された「演出」であったというのが、先行研究の成果である。

 しかるに葬列は、権威を示すべき将軍は亡くなっており、行列の編成や道々の様子も異なる。将軍葬送は、幕府にとって、葬列が通行する町々にとって、どのような意味を持ったのか。将軍とはどのような存在だったのか。本報告では①将軍の葬列の編成、②葬列通行時の警固体制、③葬列通行時の江戸の対応を検討し、将軍葬送時の江戸で展開される近世国家・社会の権力構造の解明を目指す。



「白衣の勇士」か「疾患への逃避」か?―総力戦と精神神経疾患をめぐるポリティクス

中村 江里

 近代以降日本が行ってきた対外戦争は、自国の軍隊においても多数の戦傷病者を生み出したが、彼らの社会における位置は、その呼称とともに変遷してきた。総力戦においては、かつて「廃兵」として国家からほとんど支援が得られなかった戦傷病者たちを、「白衣の勇士」である「傷痍軍人」として称揚し、彼らを戦時労働力として再統合する力が働いたことを軍事援護研究は明らかにした。そして、このような戦争で「名誉の傷痍」を負った人びとの称揚は、一般の障がい者とは明確に差別化される形でなされた。

 しかしながら、そこで主な研究対象となっている「傷痍軍人」とは身体に傷を負った人びとであり、心の傷が戦時下の日本社会でどのような位置をしめていたのかについてはほとんど明らかになっていないと言って良い。本報告は、戦争と精神神経疾患に関する言説や構造と実態を分析し、戦時下における「傷痍軍人」の「統合」を再考する試みである。

 十五年戦争は、精神神経疾患兵士に対する国家的なケアがなされるようになった初めての戦争であった。一九三八年以降、国府台陸軍病院が精神神経疾患専門の治療機関として機能するようになり、一九四〇年に精神疾患を対象とした傷痍軍人療養所である武蔵療養所が設立されたことはその証左であろう。このような福祉領域への国家の介入は、近年明らかにされつつある総力戦と「福祉国家」ないし「社会国家」化という問題とも関連している。

 一方、総力戦下では「国民」から排除されてきた「二級市民」が「国民」の名のもとに包摂される力学が働くが、そのような「平準化」を装いながらも排除や差別化を内部にはらんでいた。本報告では、傷痍軍人保護事業における医療保護・職業保護・一般国民の教化において精神神経疾患がどのように扱われていたのかを検討し、「傷痍軍人」の内部にある「差異」を明らかにする。また、「人的資源」の活用という国家の要請に従い、精神神経疾患の中でも様々な「差異」の境界線が引き直された。戦闘との関連がわかりやすい頭部負傷後の精神障がいは、偏見の払拭に力が入れられた。これに対して、「疾患への逃避」が原因であると考えられたいわゆる「戦時神経症」の患者達に関しては、「白衣の勇士」と呼ぶに値するのかどうかという疑問の声が、国府台陸軍病院の軍医たちからは出ていた。このような戦病者を取り巻く社会・文化的構造は、自らの病をどのように表現していくのか(いかないのか)ということと関わっているという点についても、本報告ではあわせて検討していきたい。



一九三三年から一九四三年のフランスにおける難民問題とユダヤ系フランス人―レモン・ラウル・ランベールの国民観―(仮)

山本 耕

 一九三〇年代のフランスは恐慌の波及、政治の分極化や仏独間の軍事的緊張といった国内外の諸要因によって動揺しており、一九四〇年には第二次世界大戦における対独敗北の結果、第三共和政が崩壊した。この時代に国民的課題となっていたのが、ヒトラー政権成立以後中東欧から流入していた難民への対処であった。フランスは一九世紀以来多くの移民を受容し、それに伴い彼らとの摩擦も生じていた。難民の存在は外国人への潜在的敵意の発火点のひとつとなり、難民問題は外国人問題へと拡大していった。これらの難民の大半をユダヤ人が占めていたがゆえに、国内のユダヤ人コミュニティは彼らへの対応を迫られていた。だがユダヤ人指導者たちはその活動方針を巡って対立したのである。

 先行研究はユダヤ系フランス人とユダヤ系移民という大きく異なる背景を持った人々の間だけではなく、それぞれのコミュニティ内部にも対立が存在したことを明らかにしてきた。さらにユダヤ系フランス人指導者の動向に注目し、それを難民問題へ影響を及ぼした主要因のひとつとしてフランス社会全体の中に位置づける研究が登場しているが、彼らがいかなる主張を唱え、その活動をどう正当化していたのかは本格的な研究対象になってこなかった。しかし彼らの主張を明らかにすることは当時のフランス社会を理解する上で重要な意味を持つ。難民、さらには外国人の処遇に関する問題は、フランス国民の性質や国家制度の在り方を巡る議論と連動しており、ユダヤ系フランス人指導者の主張もまたそうした文脈の中で発されたものだった。この議論の中で、フランスへと「同化」してきたユダヤ系フランス人は国民と外国人の境界に立たされ、フランス国民としての自己主張をせざるを得なかった。ユダヤ系フランス人指導者の主張に対する分析は、彼らが国民性をいかに解釈し行動したのかということを明らかにするだけではなく、二〇世紀半ばのフランスにおいて巻き起こっていた国家制度をも問う大きな議論の一端を解明することにもつながるのである。

 本報告はその一事例として、親難民的活動を行った指導者レモン・ラウル・ランベール(一八九四―一九四三)に焦点を当てる。彼は外務官僚や難民支援団体幹部を務める傍ら、ユダヤ人新聞Univers israéliteの編集長として意見を発信し、さらにヴィシー政権期には自身の活動について日記に書き残していた。それらを手掛かりとして、難民問題発生からアウシュヴィッツにおけるランベールの死亡までの一〇年間を対象とし、その間に彼が祖国フランスやそこで生きるフランス国民としてのユダヤ人をいかに定義していたのかを明らかにすることが本報告の目的である。