【第50回大会】《個別報告》レジュメ(報告要旨)

伊勢神宮領荘園における寄進行為の実態―遠江国浜名神戸を事例として―

朝比奈 新

 中世社会にみられる寄進行為は、民衆レベルの所有の拡大などにより地域社会へと浸透していった。地域寺院にも、現世・来世の安穏などを願う多くの民衆から田地等の寄進が寄せられた。そして地域寺院に集積されてきた田地は、荘園領主などによって免田として公認され、寺領の中核として形成されていくという理解がされてきた。しかし、寺院への寄進・売買により発生した免田には、荘園領主など権力の承認が必ずしも必要とされなかったことがわかってきた。また本尊への寄進の事例から、本尊領は荘域を超えて散在していたことがわかっており、荘園制的な領域構成を超えて独自の関係があった。

 つまり、地域社会における寺院への寄進行為は、荘園制とは異なる次元でおこなわれていた側面を持っていた。中世の荘園制と地域社会の関係を考える上で、寺院への寄進行為は重要な鍵になると考える。そこで、伊勢神宮領遠江国浜名神戸を考察の対象地域としたい。浜名神戸は十六世紀まで貢納がみられるなど、中世後期まで一貫して伊勢神宮領として設定されていた。そして地域の人々からの寄進が多く確認される地域寺院大福寺が存在する。荘園制と地域寺院への寄進行為の関係を論じるには格好の素材であると考える。

 第一章では浜名神戸と大福寺について説明する。浜名神戸は古代に成立した伊勢神宮領荘園である。その中心部からやや北側に位置するのが高野山真言宗寺院の大福寺である。大福寺は、伊勢神宮の祈祷所として、領主の庇護を受ける関係であることが確認できる。寄進者の階層は、荘官層、名主・沙汰人層、僧侶や法名を名乗る者が多く、寄進対象物は田畠地で占められていた。

 第二章では大福寺による寄進物の運用について述べる。大福寺への寄進状二四通中一一通が、本尊である薬師如来へ田畠地の寄進をおこなっていた。本尊領は寺僧の共同体が維持・管理していたことがわかっており、大福寺でも十数の坊の共同体である衆徒等によって管理されていたと考えられる。本尊領を含む寄進田地は浜名神戸の中心地に集中してはいるものの、広範囲にわたって散在していた。寄進田地を介して地域社会に大福寺の寺院機能が浸透していたことがわかってくる。

 第三章では寄進行為にみえる伊勢神宮領荘園の特徴を考えていく。伊勢神宮領では地域寺院への寄進行為に神仏隔離の影響がみられる。そのことを承元三年の大中臣時定による大福寺への所領寄進の事例から、神領を寄進する行為を、伊勢神宮祭主家出身者の出家や氏寺建立と関連させて考察を加えていく。また、なぜ神領の寄進行為がおこなわれたのかを、荒野などの開発の問題とあわせて考えていく。そして伊勢神宮領荘園において、寺院への寄進行為に神仏習合・神仏隔離の原則がどのように影響していたのか考えていきたい。



近世前期地域支配体制の変容と土豪

鈴木 直樹

 土豪をめぐる研究は、中世史・近世史双方からのアプローチによって、いま新たな展開を見せている。

 従来、土地所有論・経済論に基づく階級対立の視点から、土豪・侍衆は、村民と対立する存在として描かれてきた。しかし近年、社会集団論の手法を取り入れ、彼らは村や地域社会の人々の成り立ちに積極的に関与していたと評価されつつある。

 吉田ゆり子氏・小酒井大悟氏は、和泉国大鳥郡上神谷地域および当該地域の山支配を請け負う山代官、土豪小谷家を取り上げ、近世前期の土豪と地域社会の関係性を再検討した。両氏の研究から、土豪が、小百姓層の成長による一定の規制を受けつつも、新たに領主権力と結びつくことや経済的優位性を保持し続けることによって、地域内部における政治的な優位性を維持する実態が明らかになった。

 小谷家を地域社会でヘゲモニーを握る権力主体とせしめた要因の一つは、領主権力との結合である。しかし上神谷地域は、単一領主支配が行われたことに特徴を持つ地域である。先行研究を見ても、近世前期の関東のように、領主支配の錯綜や交代などの影響を受ける地域における地域権力の推移については、十分な検討がなされていない。領主支配の錯綜が見られず、地域的一体性の強い上神谷地域とは違い、領主支配の錯綜や交代が激しく、それにより地域秩序が大きく変化する関東では、地域権力としての土豪の政治的地位に、また違った様相が見られるのではないだろうか。さらに、「領」という北条氏の支城を中心とした領国支配単位が、近世に入っても継承・再編・拡大され、一定の機能を果たしていたことが関東の特徴として究明されている。この点も、領主の地域編成と土豪の地域社会における政治的な地位の変化を考える際に重要である。

 一九八〇年代後半以降の近世村落史研究や地域社会論は、領主による地域編成や政策の影響を強調する幕藩制国家論を相対化し、村や地域の自律的な社会像を示してきた。しかし渡辺尚志氏が提起するように、領主の交代や政策の変化などの影響を重視した一七世紀村落論の深化が、これからは重要であろう。

 そこで本報告では、近世前期の関東において、領主交代・新政策の導入・領主錯綜状態の進行などに伴い、地域権力としての土豪の政治的な地位がどのように変容するのかを解明する。

 分析対象とするのは、近世を通じて幕領であった武蔵国久良岐郡本牧領永田村(現、神奈川県横浜市南区永田)の名主服部家である。



日中戦争期華北占領地における対外関係の展開―北支那方面軍『月報』を手がかりに―

小野 美里

 日中戦争期中国戦線の現地軍は、その占領下に、中国人を擁立して複数の政権を成立させた。華北の北支那方面軍(以下、北支軍)の占領地には、一九三七年一二月「中華民国臨時政府(四〇年三月以降は華北政務委員会)」が成立する。従来当該地に関しては、経済・治安・文化の各領域、及び官製団体(新民会)等につき研究の蓄積があるが、北支軍が主導した占領地行政そのものに焦点を当てた研究は進展してこなかった。本報告が扱う同軍の対外業務についても、ほぼ関心が払われていない。だが同軍がいかに占領下の対外業務を担ったかは、現地政権の実態に関わる重要な問題の一つであり、その内実を明らかにする必要がある。本報告は、既往の研究で使われてこなかった北支軍『月報』を用い、同軍による対外業務の内容と変化を分析することで、当該地に展開した対外関係の一端を明らかにしたい。

 北支軍が主導した対外業務とは、その大半は「事変」下の占領地に存在した第三国の諸権益をめぐる摩擦の処理だった。ここで留意すべきは、この問題が局地的問題にとどまらず、その処理次第で国際問題に発展し得る状況にあったことである。占領下の第三国諸権益は、日中戦争が「事変」だったゆえに平時の権利を主張し、また本国との関係を盾に、支配当局と対峙した。対する北支軍は、「事変」ゆえに利敵行為に対する実力行使に制約がかかり、大枠では秩序への服従を強硬に求めつつも、現実には本国対本国の関係に規定された差別的対応を迫られた。第三国諸権益への対応は、治安維持上の懸案であると同時に、国際関係に影響を与える問題だったからこそ、北支軍の占領地行政の中で一定の比重を占め、「外交」工作として意味をもった。

 北支軍による「外交」にいち早く注目したものに、永井和の研究がある。永井は、華北占領地の英国権益(租界)をめぐる一連の外交問題に際し、北支軍が政府の外交から半ば独立した形で、封鎖という制裁手段により対応したことを、現地軍による「軍部外交」の一例と位置付けた(「日英関係と軍部」三宅正樹ほか編『大陸侵攻と戦時体制』第一法規出版、一九八三年)。本報告もこれに示唆を得ているが、当該地固有の「外交」については、他国への対応も含めた検討が、課題として残されている。また近年、日中戦争期の日本外交は、ヨーロッパ国際関係を見据えた多国間関係の中で捉えることが自明になりつつある。占領下の第三国権益への対応が「外交」工作としての意味をもつ以上、多国間関係の中で理解することが求められよう。

 以上をふまえ本報告ではまず、「事変」勃発後、占領地をめぐりいかなる外交問題が発生し、現地の対外業務の仕組みがいかに形成されたかを検討する。そのうえで、主に対英仏、対米、対枢軸国関係を軸に、アジア太平洋戦争勃発に至るまでの当該地の対外関係とその展開を見ていく。本報告で対外関係の展開という視角から、現地軍による占領地運営を捉えることにより、日中戦争期の華北占領地の特質を改めて考える足がかりとしたい。



「大東亜共栄圏」における「民族」の問題―ビルマ・シャン州をめぐって―(仮)

大堀 宙

 「大東亜共栄圏」という構想は、「民族自決」原理が広がった第一次世界大戦後の状況のなかで、いかに「帝国」を維持していくかという問題に対する一つの対応としての側面を持っていた。先行研究においても、知識人の議論など思想的なレベルではヴェルサイユ体制の「民族自決」原理自体が批判対象となり、新たな原理として「指導国」の下に統合する広域圏が構想されたことが指摘されている。その一方、実際の政策レベルについての研究では、脱植民地化の潮流のなか「民族自決」を求める東南アジア諸国と対峙した日本もまた、一定程度の「自主独立」を認める方針をとらざるをえなくなり、「大東亜共栄圏」が内部から崩壊していったことが論じられている。

 こうした日本の指導性やそれに抗する自主性といった問題は、「民族自決」を「民族」と「自決」の二つの側面に分けるとすれば、おもに「自決」に関わる問題だといえる。しかし同時代の状況のなかで「民族自決」や「独立」の問題を考える際には、そもそもその「自決」の単位として想定される「民族」をどのように捉えるかということも重要な論点であった。特に国民国家形成期の東南アジアが、多民族社会のなかでいかに「自決」の主体たる「民族(ネイション)」を成立させるかという難題と向き合っていたことを念頭に置くとき、そこに介入した「大東亜共栄圏」について考えるにあたっても、「民族」をめぐる問題を論じることが必要なのではないだろうか。

 こうした点から、本報告では「大東亜共栄圏」において「民族」をめぐる問題が浮き上がってきた事例として、ビルマ北東部のシャン州に対する日本の対応について分析していく。シャン州はタイ・ラオス・中国との国境に位置し、ビルマ民族とは言語的に異なるとされるタイ語系のシャン民族など「少数民族」が多く住む地域である。これらの国境線は英仏の植民地帝国とシャムや清の交渉で一九~二〇世紀に引かれたものであり、近年ではこれら四ヵ国にまたがる地域を「シャン(タイ)文化圏」として捉えることが提起され、国民国家の語りを相対化する視点として注目されてもいる。

 日本はアジア・太平洋戦争緒戦の勝利の勢いに乗じてシャン州を含むビルマ全土を占領するが、英領ビルマ時代からの分断統治という状況やシャン民族の「土侯」の意向、タイやビルマのナショナリズム、日本側の諸勢力の思惑などが交錯するなかでシャン州に対する日本の方針は二転三転し、最終的には州を二分割してタイとビルマに編入するというかたちで対応することになる。

 本報告では、こうしたシャン州の扱いをめぐる議論の過程を分析することを通じて、東南アジアの多民族社会に日本がいかに対応したのか(できなかったのか)を検討するとともに、「大東亜共栄圏」における「民族」問題の扱われ方について考察したい。